Yutaka Aoki | 青木 豊

一枚の紙に無数に点を打ち、2 人が交互に点と点を線でつなぎ三角形をつくる。 自分が完成させた三角形には色を塗り、最終的に点がなくなった時点でより多くの三角形を作った方が勝ち。子供のころよくこうした遊びをしていました。あのゲームの名称は今でもわかりませんが白熱した記憶と最終的にいびつな円形のようになった形の塊はよく覚えています。

〈around the world #3〉は上記のゲームと同じような方法で制作しました。使い古されたテーブル板にドリルで穴をあけ、トリマーを使って引かれた線 (=溝・穴。絵画でいうところの図が抜け落ちている。)から、sprout curation主宰の志賀さんはアンリ・ミショーのドローイング作品で展開された線との相似性を見、「ムーヴマン」という言葉を投げかけてくださいました。 これまでシルバーの山や折り紙シリーズなど、視点・立ち位置を変えることで眼前に広がる景色が変化する作品を通じて行ってきたことは、光をとおした実在/仮像 の関係をさぐる試みです。作品の周辺をさまようことでようやく一枚の絵を認識するこの方法はつまり光を媒介に作品も人も動いているということにほかなりません。しかし同時に時間は可逆性を持たないため、全ての瞬間において無条件に切断が起こります。もちろん絵画はものをいわないメディアですが、それでもわたしたちの体験や記憶をたよりに切断された時間をつなぎあわせることは可能だと言えるのではないでしょうか。

話は逸れますが 2012年に欧州連合から提案されたインターネット上における「忘れられる権利」は、その是非は別として肥大化した情報環境に一つの権利を与えました。そして今年に入りその権利は実行に移されています。反射ともいえる速度で形骸化した情報がラリーを続けている現状において、その反射対象を消失させることは世界の一つの転換期のように思われます。パッチワークのような薄布が表層を漂うこの世界で、そのはりぼてさえも失うことになった時、わたしたちは少なからず信頼を寄せていた幻があらためて幻想だったことを実感するのではないかと思います。

先に書いたように時間は一方方向にしか進みませんが、その速度を緩めて適正値に戻すことはできるでしょう。それにかかる負荷、つまりものが動くとき、そこには 練り上げられたエネルギーが伴っています。古来より人が祈りを捧げるときに踊り・舞ってきたように本来そのエネルギー源は消費、使い捨てられるものではないはずです。その確からしさを獲得するためにわたしたちには実体験としての運動が必要になってくると言えるのではないでしょうか。

このような考えのもと、絵画/立体をとおして物質とイメージを等価にするための運動の導入を試みています。

ー「Mouvements|ムーヴマン」(sprout curation 2014)展覧会ステートメントより

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